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成果物と評価 

ソフトウェア開発に携わっていると必ず待ち受けているのが各種のテストです。特に完成度という言葉が使われる業界ではそれを客観化するためにテストやチェックが多くの場合に行われます。



このような評価は主に最終成果物に対して行われます。しかし中間成果物についてはどうでしょうか。言葉で書かれたドキュメントやUMLなどで書かれたなんらかの意味を持つ中間成果物に対する評価はあまり行われていないように思います。



評価が行われていない部分においての成果物はどうしても属人性が高くなります。もちろんオリジナリティ自体が評価されるようなケースにおいて属人性は当然です。しかし論理的な整合性が求められるようなケースにおいて属人性が高いことはリスクを伴います。



モデル駆動型アーキテクチャ(MDA)などという言葉もあります。完成度の高いモデルの方がそうでないモデルよりもよい結果が得られるのだとすれば、作り出されるモデルレベルでの評価は現在どのようになっているのでしょうか。



考えをまとめることを目的とした各種思考ツールについてもアウトプットに対して評価までセットになっているものもあります。作家と編集者の関係においても編集者はおそらく評価の一端を担っていることは容易に想像できます。



テストが行われるためにはテストにかかる費用が利益に対して小さいことが条件になります。特にテストが繰り返し行われるようなケースにおいては方法論が入り込む余地があるケースは意外に多いのではないでしょうか。


裁判員制度が実施される前に 

最近は忙しくてテレビはほとんど見ることができなのですが、それでも聞こえてくる話題に裁判員制度があります。

 

拘束時間や判決、守秘義務などによるプレッシャーに見合うだけの意味が私たちの社会にとって重要であるということがまだ実感できていません。

 

そこで再審要求というキーワードを聞いて思いついたのですが、まずはこの再審要求の審議に一般の人を参加させるというのがよいのではないでしょうか。

 

再審を認めるかどうかであれば、判決や守秘義務から来るプレッシャーははるかに小さなものになりますし、審議に必要な材料が裁判というリアルタイム性の高いものから低いものになるため、予想外に長い時間を拘束される可能性も格段に小さくなるはずです。

 

法律に全くの素人の思いつきですが、これであれば一般の人に対する抵抗感は少なくなりますし、現状の裁判に対する意見を発する場としての機能も持ちうると思います。

拾った言葉 2008/01/13 

モーニング2008・01・24号のチェザーレから。

そもそも冒険とは達成を前提としそのために万全の策を練ったものであって、その対策を意識しないというのはそれはもう冒険でなく無謀というものですよ

アンジェロからチェザーレへの言葉です。君主にとって大事な考え方というよりは君主に誠実な人間がどのように考えるのかということを表しているように取れました。軍師や参謀、ソフトウェアアーキテクト向けの言葉かもしれません。

 

爆笑問題のニッポンの教養 新年会スペシャルから。

納得したものを人は受け入れる。効率を一ヶ月で考えるか、一年で考えるか、百年で考えるか。どこまでイマンジネーションを時間の軸に広げられるか。

生物と無生物のあいだ」の著者、福岡伸一氏の言葉です。自分のやっていることに迷いが生じたときにニヒリズムや他人から与えられたイデオロギーやすでに存在する価値観にその理由を求めるだけでなく、違う時間軸との因果関係にも自分が納得できる理由が存在しうる気がします。

論理による感情の抑制効果 

論理的な思考に集中しているときには感情的な行動は抑制され、感情的になっているときには論理的な思考は抑制されます。改めて考えてみれば強烈な感情を論理を志向することで押さえつけるというバルカン星人の設定というのは良くできてますね。

 

生存本能のようなプリミティブな感情を除くと、出来事が価値観を通ることによって生じる感情が(何もしないという決定も含めて)行動に影響を与えるという考えは理解できます。そしてこの行動を起こす際に想定される出来事がさらに自分の価値観を通したときに負の感情が芽生えると葛藤が発生します。

 

解消の見込みの無い葛藤が長期にわたってそのまま存在し続けることが精神的にあまりよくない影響を与えるであろうことは素人の私にも想像するに難しくありません。先送りするか解消するしかないわけですが解消の場合、先の構造に照らし合わせると負の感情が発生しない別の行動の選択肢を見つけるか、価値観を見直すことになります。

 

社会的な制約を受けやすいため適切な行動を見つけるよりは価値観を見直すほうがはるかに自由度は高いです。このため論理療法が有効であるとも考えられるのですが、論理療法はどうしても予防、リハビリ、カウンセリングと敷居が高いものに私には思えてしまいます。感情が高ぶってきてちょっとやばいなと思ったときに私は「~だ。なぜなら~だから。そうでない場合は~」という文を3つとも同じ主語で作ったりします。文をうまく作れても作れなくても意外と感情を抑えてくれます。私だけかも知れませんが。

 

 

自己変革の心理学―論理療法入門 (講談社現代新書)
伊藤 順康
4061490117

2007年8月31日 朝まで生テレビ 雑感 

思っていたより聞けました。出演メンバーが私にとって聞きやすい人がそろっていたのでしょうね。

 

枝野議員はこの人がいなければ私はいまだに議員の話なんて聞く価値がないと考えていたかもしれません。片山議員はどうしても人間的にまだ信頼できないのですがそれでもいわゆる小泉チルドレン世代の議員の中でも別格でしょう。この人を優秀でないという人はいないと思います。高木議員は討論番組における公明党の数少ない防波堤の一人だと思います。もう少しがんばってほしいですが。江田議員は今回一番注目をかっさらっていきましたね。この人も本当に優秀だと思います。ただ、これは片山議員にも同じことを感じるのですが「だからぁ」というときに臭う官僚臭だけは気をつけて欲しいものです。森本さんは今回はちょっと弱かったですね。

 

以前に見たドラマの中でこんな台詞がありました。

 

公開討論のレベルをあげよう。それを私たち政府の遺産としよう

 

そのシーンを見て本気で泣きそうになったのを覚えています。議員をはじめ有識者の方には本当にレベルの高い議論を期待します。私たちは行われている議論がちゃんと高いレベルが維持されていることを意識できるよう努めていきたいものです。

アジャイルと「萌え」を同じ見方をしてみる 

「オタク論!」からの強引な引用。

僕は、"萌え"はスタイルだと思うんですよ。コンセプトがないのがスタイルの特徴でしょう。例えば、"アメリカ好きだったら音楽はこんなの聴いて、服はこんな感じで、というのがありますよね。"萌え"はもうスタイルだから、中心となるコアなものがなくて、衣食住を全部統一できる世界がある。萌えスタイルというのはもうできているから、定義が必要なくなっちゃった。もっとも、"萌え"の人たちは定義なんて求めてないでしょうけど。
オタクの中でも、"萌え"というのが差別されてるときには「俺たちは萌えなんだ」「萌えとはこうなのだ」と理論武装しなければならなかった。ここから先、"萌え"がスタイルになってしまえば、「かわいい女の子を知っている」とか、「新しくできたメイド喫茶に行こう」という方に熱心になる。「野球とは何か」という論争がないのと同じですよ。

確かに一つの見方です。これをもとに少し言葉をいじってみます。

僕は、"アジャイル"はスタイルだと思うんですよ。コンセプトがないのがスタイルの特徴でしょう。例えば、"アメリカ好きだったら音楽はこんなの聴いて、服はこんな感じで、というのがありますよね。"アジャイル"はもうスタイルだから、中心となるコアなものがなくて、コーディング、テスト、チームビルディングを全部統一できる世界がある。アジャイルスタイルというのはもうできているから、定義が必要なくなっちゃった。もっとも、"アジャイル"の人たちは定義なんて求めてないでしょうけど。
アジャイルを実践しているの中でも、"アジャイル"というのが差別されてるときには「俺たちはアジャイルをやっているんだ」「アジャイルとはこういうものなのだ」と理論武装しなければならなかった。ここから先、"アジャイル"がスタイルになってしまえば、「いいプラクティスを知っている」とか、「新しく提案されたプラクティスをやってみよう」という方に熱心になる。「野球とは何か」という論争がないのと同じですよ。

そこそこ、意味が通ってしまうのがおもしろいです。

 

オタク論!
唐沢 俊一 岡田 斗司夫
4924718807

意見の提出と個人の動機 

「マンガは今どうなっておるのか?」から引用。


いずれにせよ人は現在ある事態の情報を、自分がどんな動機で見ようとしているかを考慮せずに、「普遍性」に向かうより大きなテーブルで議論することはむずかしい。


現状、問題点、対応策。会社などで自分の意見を提出するときの一般的な形式です。文章の書き方や自分の考えのまとめ方などについて多くの本が出ていますし、私も大変参考にさせてもらっています。

しかし、数ある対応策のの中から何故それを選んだのか、あるいはその問題を何故選んだのかということについて論理的な正しさや客観的な説明を行うことはとても難しいものです。そもそも論理的な正しさを示すことができないものもあるでしょう。

それでも選択をしなければならない場合に入り込んでくるものが動機だと思います。これを経験や直感として捉えることもできるでしょうが、動機自体を言葉にし自分の意思の再確認を行うことで自分の案への固執や、不自然な妥協を減らすことができる気がしています。

マンガは今どうなっておるのか?
夏目 房之介
4861470099

道端でふと思ったこと 

東洋系の人でサングラスをかけて絵になりそうな人。

鮎川誠、アントニオ猪木、笑福亭鶴瓶、、目が隠れるだけに
どちらかというと骨格にインパクトのある人か。ただ、エラ系の
人がどうしてもイメージが沸かない。片桐はいりとか。(笑)

「個人」と「自己」--- 考えあう技術から 

「考えあう技術」という本の中に次のような文がありました。


社会の一単位としての「個人」と「自己(個性)」が分節化されないまま論じられてきた。そのために自分=自己を大切にしたって、そのことが無前提・無条件で主体的な個人や自由な個人を作るわけではない。


ここでいう「個人」とはインターフェースと言い換えることができると考えています。主体的な個人というのはインターフェースを自分で用意すること。自由な個人とは社会とのインターフェイスの密度を状況に応じて変えられること。


そして社会が人間に対して「個人」として役目を持つことを要請するならば、社会は人間が「個人」としての役目を持つことができるようになるための環境や仕組みを持たなければならなりません。


その一端を担うのが学校教育であることは間違いないでしょう。現在の社会においてインターフェースの大部分が言葉を必要とします。数字がなければ少子化は問題として表現できません。これらがインターフェースを支える重要なパーツであることは多くの人が認めるところだと思います。問題なのは社会が要請しているのはインターフェース自体であるにも関わらずインターフェースのパーツの量や質を評価基準としているために何故こんなにたくさんの勉強をしなければならないのかという問いに説得力のある答えが用意できないことです。


私は手持ちのパーツを使ってインターフェースを形成し、形成されたインターフェースを用いて現在の自己を社会にアウトプットし、そのリアクションを体験することが学校で勉強することの必要性を実感することだと考えています。おそらく本来の総合学習とはそういうものを目指したものだったのではないでしょうか。


考えあう技術
苅谷 剛彦 西 研
448006222X

NUMB3RSを見ています 

NUMBERSといってもミニロトではありません(笑)。FOX CRIMEでNUMBERSというドラマがあります。FBI捜査官の兄と天才数学者である弟と普通の父親という家族構成とFBIの捜査官の面々という組み合わせでの犯罪捜査ドラマです。

 

スタートレックやスターゲイトはSFドラマといわれています。NUMBERSは犯罪捜査ドラマです。これはSFドラマは科学的想像物が存在する世界観の上で物語が作られていて、犯罪捜査ドラマは犯罪が発生する世界観の上に物語が作られているということができると思います。

 

これらのドラマは与えられた世界観の上で好きなことを好きなだけやっているわけではなく、スタートレックは艦隊の誓いの制約の下、スターゲイトはゲイトシステムの制約の下、NUMBERSは数学という制約の下に物語が展開されます。これらの制約がドラマのアイデンティティを強めるわけですね。

 

また、これらのドラマの共通事項として基本的に一話完結というつくりになっています。このタイプのドラマには一話ごとにテーマが与えられていることがあります。

 

NUMBERSのある回でのテーマの出発点は発見と発明でした。 発見をもとに発明されたものによってもたらされる不幸の責任は発見者までおよぶのか。難しく且つ一般的なテーマです。 このようなテーマを見つけられることが脚本家の存在感を高めるのかもしれないなと思いました。

 

世界観、制約、テーマによって作られる物語は岡田斗司夫さんの表現を借りれば「頭のいい」物語です。かつて「頭の悪い」物語が大好きだった自分を覚えているだけにこの嗜好の変化は加齢のせいなのかと基礎代謝の低下を実感する今日この頃です。

 

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