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「個人」と「自己」--- 考えあう技術から 

「考えあう技術」という本の中に次のような文がありました。


社会の一単位としての「個人」と「自己(個性)」が分節化されないまま論じられてきた。そのために自分=自己を大切にしたって、そのことが無前提・無条件で主体的な個人や自由な個人を作るわけではない。


ここでいう「個人」とはインターフェースと言い換えることができると考えています。主体的な個人というのはインターフェースを自分で用意すること。自由な個人とは社会とのインターフェイスの密度を状況に応じて変えられること。


そして社会が人間に対して「個人」として役目を持つことを要請するならば、社会は人間が「個人」としての役目を持つことができるようになるための環境や仕組みを持たなければならなりません。


その一端を担うのが学校教育であることは間違いないでしょう。現在の社会においてインターフェースの大部分が言葉を必要とします。数字がなければ少子化は問題として表現できません。これらがインターフェースを支える重要なパーツであることは多くの人が認めるところだと思います。問題なのは社会が要請しているのはインターフェース自体であるにも関わらずインターフェースのパーツの量や質を評価基準としているために何故こんなにたくさんの勉強をしなければならないのかという問いに説得力のある答えが用意できないことです。


私は手持ちのパーツを使ってインターフェースを形成し、形成されたインターフェースを用いて現在の自己を社会にアウトプットし、そのリアクションを体験することが学校で勉強することの必要性を実感することだと考えています。おそらく本来の総合学習とはそういうものを目指したものだったのではないでしょうか。


考えあう技術
苅谷 剛彦 西 研
448006222X

コメント

>「個人」と「自己」の区別

正論だとは思いますが、事態の根底には最早従来的「個人」のイメージでは「自己」(の”実現”欲求)を押え切れなくなって来たということがあるのだと思います。
強引にもう一度押え込むのか、むしろ「自己」の方に合わせて社会(または「個人」のイメージ)が変わるのか。

>社会が要請しているのはインターフェース自体であるにも関わらずインターフェースのパーツの量や質を評価基準としているために何故こんなにたくさんの勉強をしなければならないのかという問いに説得力のある答えが用意できない

元々の学校制度、普通/国民教育制度というのは、「インターフェイス」の中身=パーツまで含めてある程度一義的に決定するものだったと思います。だから理由はいらなかったというか、勉強の”見返り”もほぼ自動的に期待できた。更に言えば、量や質の検定にも整合性はあった。

>手持ちのパーツを使ってインターフェースを形成し、形成されたインターフェースを用いて現在の自己を社会にアウトプットし、そのリアクションを体験することが学校で勉強することの必要性を実感すること

例えば「専門学校」のような特定の業界への適応を目的とする”学校”ならこういう関係も成り立つ可能性はあると思いますが、少なくとも社会一般を目標とする一般学校でそんな”必要”な教育/カリキュラムは可能なんでしょうかね。あるいは実現したことがあるのでしょうか。

仮に欧米などで社会と学校にそういう関係が成立しているように見えるとすれば、それはあちらの「一般社会」の方が実は暗に”特定業界”化している、特定のタイプの社会であるということなのではないかと、そんな風に思います。
具体的には「論理」や「キリスト教倫理」に自明かつ無意識の信頼を置いた社会、みたいな。

日本だったらむしろ根回しや談合の学習をした方がいいんじゃないかとか(笑)。(後は資産運用?)
社会自体がいかなる原理からも逃げ回っている状態で、教育を定式化出来るのか。辛うじて成立していたのがむしろ「学歴社会」だったのではないかという。

> 少なくとも社会一般を目標とする一般学校でそんな”必要”な教育/カリキュラムは可能なんでしょうかね。あるいは実現したことがあるのでしょうか。

ちょいと毛色の変わった先生の中にはやってそうな気もしますが、例えば中学生くらいならば自分の名前に親がどのような気持ちをこめたか、同じ名前を自分の子供に付けるとしたらどんな気持ちをこめるか、こういう気持ちをこめるとしたらどのような名前をつけるかとか、高校生くらいならば国と国家という言葉を入れ替えても意味が変わらない文と意味が変わってしまう文を作らせてその中から先生が適当なものを選び、意味が同じだと思う人と違うと思う人との間で討論させるとかなどカリキュラムの間にこそこそっと忍ばせるのはありかな、と思ってます。こういう類はやっぱり専門教育の前の一般教育の範疇のような気がします。

うーん、例えばそういうカリキュラムはカリキュラムで効果があるとして、ではそこで身につけられるような折り目正しい論理能力などが、現状日本社会でそのまま歓迎されますかね。”リーダー”や”エリート”クラス、あるいはオチョーさんがそうであるのだろう特殊に論理的な職能を要求されるジャンルではなく、もっと一般的なクラスや”兵隊”として働かざるを得ない大部分の子供について言ってますが。

結局は教育の「システム」や「カリキュラム」の、基本的にはテクニカルな問題について語っているつもりが、実際には(未だ実現していない)『望ましい社会像』について、そこで望まれる人間像についての話になってしまう/しまっていると思うんですが。

それが悪いということではなく、ことは「教育」システム/カリキュラム単独の問題ではなくて教育と社会のマッチングの問題ではないか、だから教育について考える人は、古のルソーを筆頭にほとんど漏れなく社会思想家になって行かざるを得ないのではないかということです。

通じてますかね。
悪いこと・間違ったことを言っているとは思いませんが、どうにも楽観的/形式的な話に聞こえてしまったので突っ込ませてもらいました。
何か誤読してますか?

カリキュラムのためのテンプレートの一つになるんじゃないか、というのが私のイメージです。

カリキュラムがどのようなテンプレートから作り出されているのかという調合具合まではここでは対象にしているつもりはありません。

その調合具合が教育と社会のマッチングをカリキュラム視点から見た形の一つだとは思います。

しつこくて申し訳ありませんが

単純に読解できないので質問。

>カリキュラムがどのようなテンプレートから作り出されているのかという調合具合

これはどういう意味で、僕が書いたことのどこにどう関係しているんですか。

それが分かれば多分この文
>その調合具合が教育と社会のマッチングをカリキュラム視点から見た形の一つだとは思います。
の意味も分かるんだろうと思うんですが。

私が勘違いしている可能性も高いので、比較できそうなものとしてテレビ報道を挙げてみます。

教育と社会とのマッチングとはテレビ報道が社会に及ぼす影響と社会がテレビ報道に及ぼす影響の形としてとらえられるかと。さらにはカリキュラム群はテレビの報道番組群として、テンプレートとは報道番組の構成パターンとして。

仮に報道番組群がレギュラーメンバーがすべて報道のプロであるというような単一の構成パターンのみであるような調合具合であるときの社会への、社会からの、影響の形について述べているつもりはないということです。せいぜい悪い影響だけではないだろうと思っているだけです。

パーツの取得という既存のカリキュラムパターンにこういうことをやるにはどんなパーツが必要なのかを実感してもらうパターンがあってもいいじゃないかと。素人を導入して「何を言っているのかわかりません」と言える番組があってもいいじゃなかと。やってやれないことはないんじゃないかと思ったわけです。

なるほど

とりあえず「勘違い」の部分は分かりました。

>テレビ報道が社会に及ぼす影響と社会がテレビ報道に及ぼす影響の形

こういう水平的な意味では最初からないんですよね、僕が「マッチング」と言ったのは。
あからさまに言えば
・まず「社会」が先にある(またはその構想がある)
・次にその社会の形に合わせて「教育」がある(構成される)
ということです。

今までに出した例で言えば、『キリスト教社会』には『キリスト教的教育』、(福沢諭吉の)『学歴社会』の確立を先に構想しておいての、それに向けての教育制度ということです。
歴史的に社会と教育の関係はこうであったと思います。それは「社会」一般というものは存在しなくて、全ての社会は(どこまで人為的かはともかくとして)特殊社会だということです。教育もそれに従って特殊化する。

注意すべきで、かつひょっとしたらオチョーさんが見落としているかもしれないのは、これは教育全般や古代からある”大学”や”私塾”(そこでは自由や理想が尊ばれる)ではなくて、近代のいわゆる「普通教育」「国民教育」の話だということです。今日議論されている「教育」というのも基本的にこれのことでしょう。
これらもまず国家・社会が先にあって、それが必要とするまたはそれとセットになった「国民」(市民)という特定の人間像を「作る」為のものです。だからその内容も何が必要かも国家・社会の方が決めて来ました。

今日でもある意味「普通教育」の最終形である、欧米の大学の一般教養のカリキュラムなどは、僕が知る限りとても人為的で強制的なものです。「これが、我々の仲間になるために必要なものだ」と強く訴えてきます。

(戦後)日本だと全てが薄まってしまっているのでそこらへんがぼやけているんですよ。福沢諭吉を筆頭に、最初に輸入・構想した人たちは分かっていたでしょうが。

・・・・ここまでが確認事項ですがどうでしょう。(笑)

> こういう水平的な意味では最初からないんですよね、僕が「マッチング」と言ったのは。

この文によく表れていると思うのですが、現在は社会は教育に、教育は社会に影響を与えます。つまり現在という瞬間のスナップショットとしては水平なわけですね。ところがこの瞬間を取り払ってしまうとアトさんの言われるとおり、水平ではなくなるわけです。

つまり、なにゆえそのようなスナップショットになったのかというアトさんとそういうスナップショットがある、それゆえこういうことが考えられるのではという私の間で話がかみ合わないのだと思います。

理学、工学という言葉で比喩をさせていただければ、もとの私の記事は工学系の記事であり、アトさんの言われていることは理学系の内容だと思います。理学系だとすれば場を適切なところへ変えたほうが面白くなるかと。

どうも切り上げたがってらっしゃる(笑)ようなので、どうしても引っかかりが残るところだけ。特にレスの必要はありません。

>現在は社会は教育に、教育は社会に影響を与えます。

フィードバックのスピードに差は多少あれど、現在も過去もこれは同じだと思います。つまり今までの例で言えば、ルソーの時代も福沢諭吉の時代もということですが。
どのみち僕の議論は、単なる「現在」を前提としたテクニカルなアプローチにこの問題はそぐわないというものでしたけどね。未来の構想とセットでなければという。

>理学、工学という言葉で比喩をさせていただければ、もとの私の記事は工学系の記事であり、アトさんの言われていることは理学系の内容だと思います。

これを引き取って言うとすると、実際に教育制度を扱う社会や国家というレベルでの「工学」的思考とは、要するに役人/官僚の専らとするそれですよね。彼らは言わば行政エンジニアなわけですから。
そして今日までの”教育改革”の不首尾の原因の大きな一つとして、たかだかエンジニアである彼らにその職域を越えた仕事を扱わせてしまったことがあるように思います。

それはともかく、定義からしても「工学」というのはまず根本というか前提となる枠組が定まって、それに対して帰納的に編成されるものだと思います。そして今日「教育問題」と言われているもの、あるいはここのやりとりで出て来た「カリキュラム」というのも、要するに「工学」が奉仕すべき枠組のことでしょう。制度の効率性ではなくて内容が問われているわけですから。
その議論に対して「工学」に何が出来るのか。極端に言えば間違った枠組を優れた工学が効率的に機能させてしまったら、事態はより悪化するわけですし。

こういう言わば常識的な区分に対して、それでも”あえて”(工学的思考で)物を言うというような意識性が感じられなかった、不十分に感じられたというのがそもそも僕が突っかかった基本的理由だと思います。
>それゆえこういうことが考えられるのでは
とありますが、「考え」をスタートさせる前に考えるべきことがあるのでは?ということです。別な言い方をすると、この段階で工学的思考を活躍させれるのは適当なのか?ということ。

いや、工学的思考こそが決定的要因であると考えているなら話は別ですが、その場合はそのことが分かるように書かなくてはいけないと思います。

一応別の話

この際だから言っておきますと、オチョーさんのこのブログは、工学的思考(を得意とする者)による理学的領域への、もっと大きい枠組で言えば”理系”的思考(を得意とする者)による”文系”的領域への接近の試みみたいなものが(隠れた)大きなテーマとなっているように見えて、そこらへんが面白いなと思って普段僕は読んでいるわけです。
それは成功している、インパイアリングな場合も多々ありますが、今回はちょっと失敗しているんじゃないの?得意な領域で片付けようとし過ぎてるんじゃないの?というのが、愛読者(笑)としての僕の印象です。

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