99.9%は仮説
- Book
- | トラックバック(1)
- | コメント(6)
竹内 薫

読んでいて楽しい本でした。面白い新書は結構あるんでしょうが、(私にとってですが)楽しい新書は少ないんじゃないでしょうか。
この本自体は思い込みや当たり前だと考えていることに対して様々な例を通して思考が硬直しないようにいろんな視点を持てるようにしましょうという内容です。 多くの例示がなされていますがその例がそれぞれ楽しい。私にとって特によかったのはホーキング博士の例でした。 まったくの門外漢である私にはホーキング先生がいっていることはまったく理解できなかったのですがこの本を読んでひょっとしたら理解するきっかけをもらえたかも、 と思えてきました。
それぞれの例も楽しかったのですが、 一番楽しかったのは全体を通して理解しにくい概念などを可能な限り平易な言葉で伝えようとする姿勢です。 私はそのことをとても大事なことだと考えていますし、それができる人を尊敬しています。 この本では間主観性というとてもわかりにくい言葉が出てくる部分があるのですが、これをまず主観と客観の定義から入り、ポイントとなる「間」 という概念を国際、つまり「インター」ナショナルという言葉と照らし合わせることで理解しやすいように説明しています。 こういう場面でインターナショナルという言葉が出てくる人とそうでない人の差はとても大きく思えます。
ある事柄を自分が理解したことによる結果に対する評価も大事ですが、 自分が理解した事柄をそれに気づいていない人に気づかせることの価値の評価ももっとクローズアップされてよいのではないかと思いました。
- [2006/11/10 01:09]
- Book |
- トラックバック(1) |
- コメント(6)
- この記事のURL |
- TOP ▲
コメント
よいのではないかと僕も思うんですが、少なくともここ日本では最も求められていない、評価されにくい価値なのではないかとも思います。”評論不毛の国”みたいな意味ですが。
ぶっちゃけ大部分の人は、「理解」したいとも「気づき」たいとも思ってないんじゃないですかね、実際のところ。
では何かと言えば「信じ」たい、「教わり」たい、または「勝ち馬(”正義”の側)に乗り」たい。
というわけで僕は不特定多数に向けて書く時は、読者の意識ではなくて無意識に、頭の片隅にとにかく引っかかって、何かの弾みに近接したニューロンネットワークが活性化した時に、うまく拾われればいいなとそんな感じで書くことが多いです。(たまには説明/説得もしますが・笑)
人と社会との間に存在することが確信できるものにフォーカスされちゃってるんですかね。
茂木さんのアハ体験とかたけしのコマネチ大学なんかはまず個人の中に気づかせたり感じたりするものがあることを伝えようとしているようにに見えます。
>頭の片隅にとにかく引っかかって、何かの弾みに近接したニューロンネットワークが活性化した時
ああ、なんというか、私の本の読み方(目的の一つ?)がまさにこれなんですよね。
本を読んでいる最中に浮かんできた言葉やフレーズをなんとか文章にまとめて記事を書いているので著者が言いたかったこととかすっぽり抜け落ちてることが多いと思います。中島義道さんの本あたりだとまとまらなくてほったらかしになってしまいますが。。。
>一つでも例を挙げてくれると随分分かりやすそうなのになといつも思っています。ご一考を。(笑)
記事の内容に対してその表現がそうなってないじゃないかというご指摘は真にごもっとも。自分の能力の低さ故それができる方を尊敬しているわけでして今後精進致しますのでなにとぞ長い目で。(汗)
いいえ
>自分の能力の低さ故それができる方を尊敬しているわけでして今後精進致しますのでなにとぞ長い目で。(汗)
もしくはご自分で思っている以上にハイブロウな方なのに、それに気づかず読者を虐待してるか。
一つ例なり抜粋なりしてくれるだけでいいと思うんですよ、後はこっちの甲斐性の問題。
まあ僕のなんかもそうですが、漫画・小説等のフィクションの場合はしょせんその作品を読んだ人向けと割り切るしかないところがあると思いますが、オチョーさんがとりあげるような抽象性・一般性の高い内容の本の場合はね。もう少し要求が。
・・・・からんですいません(笑)。面白げな話に聞こえるのに、今一歩で何についての話なのか分からんと悔しい思いをすることが多いもので。
本題(?)の方
とは、要するにそれまでは意味をなさなかった知識・情報(群)が、相応しい構造/ネットワークを手に入れるorそれに組み込まれることによって一気に意味を持ったその瞬間の体験のことですよね。
そこまで劇的ではなくても、認識や理解というのは多かれ少なかれそういう性格のものだと思います。Aを教わる→Aを理解するなんて直線的な関係は、特殊に形式化された学問的/トレーニング的学習プロセスか、逆にいっそカルト的洗脳のプロセスでしか起こらないものじゃないでしょうか。
だからオチョーさんの本の読み方(笑)もむしろ王道なんじゃないでしょうか、”ネットワーク”の取り扱い自体に巧拙や首尾不首尾はあるにしても。
別に著者のネットが正しくて、読者のネットが間違ってるわけではないですからね。絡まった時には別のネットが新たに出現するというか。
・・・・”博識”な人や”頭のいい”人ではなくて、”ネット”の性質を熟知している人が「説明の上手い人」、なのかな?(笑)
おっしゃる通り、ネットワークが見えている人の中でネットワークの性質を熟知することによってネットワークの見えていない人のどこを発火させればネットワークが見えてくる可能性が高いかを心得ている人が説明の上手な人なんでしょうね。
私の場合「あ、発火した」というのを楽しんでいるだけであって点より短くても線の方がいずれ何かにひっかかる可能性が高いだろうということでとりあえず文章にしてみた、という感じです。サントリー学芸賞あたりの書評を読んでいると私が書いているのはいわゆる書評ではないんだろうなぁと痛感します。表現下手のいいわけにはなりませんが。(笑)
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://ochoo.blog48.fc2.com/tb.php/74-f04acdad
ある書き手と読み手の風景
- | HOME |



コメントの投稿