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Post-it Style Kit 

私は本を読んでいて気になったところに付箋紙を張っているのですが、通勤時に電車の中で本を読んでいるときに付箋紙をどこから取り出すかについてどうにかならないかなと思っていました。

以前はブックカバーの裏表紙側に何枚かあらかじめ貼り付けておいて、そこから一枚ずつはがして使っていたのですが、本によってはあるいは書店でつけてもらった紙のブックカバーによってはすぐにはがれてしまい、電車の中で落ちてしまうということが何回かありました。

そんなときにたまたま見かけて買ったのがPost-it Style Kitです。もともとはシステム手帳などに使うものでそのための穴が開いていますが、付箋紙が貼り付けてある部分の裏側に内側から外側に向かってカバーに挟み込むための板が付いています。私の場合、これが決め手で愛用させてもらっています。

いろいろなサイズの付箋紙を貼り付けて置けますので、気になったフレーズには細い付箋紙、自分のコメントを書いておきたいときは大きい付箋紙というような使い方もできます。また、本を読み終わった後に余った付箋紙を次の本に貼り付けなおす必要もないので微妙な手間ですが助かっています。

スワンタッチ、Post-it Style Kitと自分の読書環境が少しとはいえ、便利になるのはやはり楽しいものです。後はコメント書き用のペンをどうするかですが、さすがに電車の中での腰リールは気が引けますね。^^;

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「関係の空気」「場の空気」 

「関係の空気」 「場の空気」
冷泉 彰彦
4061498444

 

 こういう着目点をなんとか言葉にしようとする試みは結構好きです。ただ、私には作者の言葉が少しシンクロしなかったので勝手に変えて解釈してみました。

 

日本人の会話は価値観や認識を共有していることを前提にして、その共有しているものをあえて口に出さずに会話を成立させる性質があります。また、会話が始まるときに共有するものを探そうという傾向があります。この共有するものを探そうという意識が働いていることを「関係の空気をまとっている」とします。

 

関係の空気をまとっているもの同士がうまく共有するものを見つけることができた状態で会話が成立している場合が「コミュニケーションがとれている」状態です。片方だけが共有できていると思って会話を進めている状態は相手から見ると「空気が読めていない」状態です。共有できていないことを認識しながらそれを探すための言葉が見つからない状態が「窒息」です。絶句や言葉を失う、見つからないといった状態ですね。そして3人以上で起きる現象として自分以外の相手側ですでに共有するものが成立している状態が「場の空気が存在している」とします。場の空気が存在している場合にも窒息は起こりえることになります。この本にはこの窒息状態の事例がいくつか上げられています。

 

私は窒息状態を軽減させるためには共有するものの核となる言葉の取捨選択が必要だと思います。歌に芝居にコメディにと幅広く活躍している木村拓也という人物をキムタクと称することによって抽象度が上がります。抽象度が上がるということは汎用性が上がることになりますから共有へのアプローチとして有用であり、ほとんど害もないと思います。しかし構造自体が持つ問題を構造を変えることで対応しようというものが構造改革であったにも関わらず、単に変えることのシンボルとして汎用性を上げ、その結果、パーツの入れ替えすらも構造改革と呼ばれるようになりました。メタボリックシンドロームをメタボと呼ぶことで比較的まじめな空間からある程度お気楽な空間へ適用可能なようにニュアンスが変わりました。お気楽な空間に適用可能になることによって例えば、

 

  • あの人、メタボだから~なんだよね。
  • あの人、メタボリックシンドロームだから~なんだよね。

の~には、メタボと表現された方が人間関係において危険な言葉が入ってくる可能性が高いと思います。共有されるもののアプローチに使われる言葉を意識的に使うよう心がけることで不要な場の空気の暴走は減るのではないでしょうか。

名前付けと図解 

@ITで「ITエンジニアにも必要な国語力 第1回 名前にとことんこだわるべし」という記事を読みました。この記事では図解力を磨くためには読解力、つまり国語力が必要であり、国語力を鍛えるためにまず名前をつけることにこだわってみましょうというものです。私も普段、説明資料を作成するときに図解や名前には苦労している人間です。そこで名前と図解について私なりに考えてみました。

図解に使用される図には図を構成する要素とその関係が描かれています。そしてその要素にはそれぞれ名前そのものか短い形容がついた名前が付いています。図解しようとしている人は要素の名前を提示することで読み解こうとしている人に意味が通じると考えているわけです。それを前提としてそれらの要素には実はこのような関係があるのですよ、と図解することになります。

図解が必要となるケースとして、

  • 世の中には何々というものがあってそれはこれらの要素から成り立っていてその要素にはこのような関係がある
  • 名前は付いていないけれども世の中にはこういう要素があり、それらにはこのような関係がある

の2つがあると思います。どちらのケースにおいても図解が文章より有利である理由としては、Aに~するとBになり、さらにBに~するとCになりますというような要素の関係に直列的な順番が存在するような場合には文章でも十分に役割を果たすのでしょうが、条件分岐などが入ってきて、Aに~するとBになるが、Aに~するとB'になり、Bに~するとCになり、B'に~するとC'になりC'に~するとBになる、あたりになってくると図解した方が明らかに理解しやすくなります。たとえ図解されていない場合でも理解しようとする側で図を描くのではないでしょうか。

各要素にこのような関係があることに名前を付けることは、そのような関係を持つ要素の集まり自体を一つの要素としてさらに大きな集まりの関係を考える際にとても有用です。プログラマであればまさに関数に名前をつけることであり、ソフトウェア設計者であれば状態遷移図の状態に名前をつけることです。名前は他との識別の役割と同時に意味の代弁となります。スターゲイトでサマンサカーターがジャネットフレイザー軍医の弔辞を読んだシーンを思い出しました。

原稿用紙10枚を書く力 

原稿用紙10枚を書く力
齋藤 孝
4479300732

もともと斉藤孝氏の著作は読んでみたいと思っていました。書店でこの本を見つけて内容をパラ見したところ、どうやら原稿用紙10枚を書く「技術」ではなさそうだったので、それでは何が書いてあるのだろうと思い、買いました。

プロローグと第1章は著者の書くことへの思いがいろいろな視点から書かれています。私などは書くことって重要なんだなぁと思い始めたのが最近であるため、著者が持っている書くことへの様々な視点はとても参考になりました。特に

書くアイディアを出すときには、自分を掘り起こし、自分の中の経験知や暗黙知の中から絞り出す。


この一文にはとても共感しました。そして書いて何かを伝えようとすることは主観から客観への変換作業を少なからず強いられることも私自身実感しています。それが結構難しいことも実感しています。ちなみにプロローグと第1章はほとんど同じページ数です。プロローグのまえにちゃんと前書きがありました。(笑)

第2章では、書くべき内容をどうやって自分の中からひっぱりだすか、ということが書かれています。区別しておいたほうがよいのは、いわゆるロジカルシンキング系の方法論は書くべき内容がすでにあり、それを如何にまとめるかという点に重きをおかれていることが多いのですが、自分の中で言葉になっていないものを如何に言葉として引っ張り出すかという点です。ポイントは

性格の違う三つのキーコンセプトを取り出して、その三つをつなげる論理を組み立てていく。


となっています。本を読んだ感想を書く場合でも自分のアンテナにひっかかったものを三つあげ、それに対して何故と問うことで暗黙知を引き出せる可能性を感じます。馬番連勝よりも馬番3連勝の方がオッズが高いように2つよりも3つの方がオリジナリティが感じられることでしょう。私の妄想ですが、キーコンセプトが4つになるとキーコンセプトを通る一筆書きのパターンが2種類になってしまい、パターンが一つとなる3頂点の場合と比べて読者とのシンクロ率が下がるように思えます。それにしても、キーコンセプトの提出、レジュメの作成、実際の執筆という流れはソフトウェアの開発プロセスにそっくりです。

第3章では文体について書かれています。しかし、どのような文体で書けばどのように読まれるかというものではありません。自分の立ち位置を意識しろと書かれています。誰にどのようなつもりで書くのかによって文体が変わってくるであろう事は理解できます。また、例えば他人の相反する2つの意見をそれぞれ片手に持って重さを感じながら書く場合と、他人の意見と自分の意見を比較する場合ではやはり意識しなければならない点は変わってくるのだろうとも思います。ただ、それを首尾一貫して行うのは非常に難しいと思いますね。だからこそ、それができる人の文章には価値があるのでしょう。

この本は、一つ一つの段落が短く、まるで海外ドラマの24のようなスピード感があるため、ぐいぐい読めます。表現技術に乏しい私から見ればうらやましい限りです。ですが逆にきっちり読もうとする場合にはこの本の中にも書かれているような「こなす読書」が必要でしょう。自分にとって重要だと思える部分を随時、印をつけて再読が可能なようにしておくのがよいと思います。

実益以上の商品価値 

芸術起業論
村上 隆
4344011783


私は今まで作品というものには芸術性と娯楽性という2つの軸があると考えていました。芸術性とは製作者の内側にあるものを表現すること、娯楽性とは製作者が作品を見る人の内側を想像しながら表現することという解釈です。芸術作品と呼ばれるものにも娯楽作品と呼ばれるものにもそれぞれ割合こそ違え、芸術性と娯楽性が混じっていてもなんら不思議はないと思っています。それ故、漠然と娯楽性の高いものは売れやすく、芸術性の高いものは売れにくいのは必然だと考えていました。

この本を読んで私なりに村上隆さんの立ち位置を相対化してみると、作品というものは一品性とでもいうのでしょうかオリジナルが最も価値があるとみなされるものと、映画やゲームのように同じ価値のものがブロードキャストされるものがあると考えられます。村上さんの作品は例外はあるでしょうが原則的に一品性のものです。また売れている作品、売れていない作品でいえば、フィギュアが6800万円(6800円ではありません)の値がつき、ルイヴィトンとのコラボレーションなども成功させているわけですから、売れているといってよいでしょう。

この本は多くの芸術家といわれる人が重心を置く一品性が重視される世界において、如何に売れる作品とするかということについて村上さんが考えていることや実際に行ったこと行っていることが書かれています。それらをまとめて作品が客の目に入るには作品の物語が必要だと言い表しています。過去の有名な画家の作品であれば以前の所有者がどのような人であったかすら物語になりうるでしょうが、そうでない場合やはり製作者が何をどのように考えていたのかを語り、その物語にどれだけ魅入られるかによって商品価値が決まるということなのでしょう。

大ヒット映画やゲームの続編は売る側が新たに物語を作らなくとも客側が過去に自分が楽しめたという物語を持っています。戦績で言えばトウカイテイオーやオグリキャップより上の馬はたくさんいますが、この2頭よりグッズの売れた馬ははたして何頭いるでしょうか。客を魅入らせる物語を提供するということは、誰が作るかという点を拡張していくと作品とか製品などという枠を超えて、実益以上の商品価値を持たせる重要なファクターになると思います。

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